「ハゲをとめるために」
「あれ、拓也。ちょっと、おでこ広くなってない?」
鏡に映る俺を見て、麻美子が言った。
お風呂からあがった俺は、ちょうどドライヤーで髪を乾かしているところだった。
同棲をし始めて、しばらく経ってからの出来事だった。
「そうかな? 昔からこんなもんだった気がするけど」
俺は鏡の中の、自分のおでこを凝視した。
まだ二十六歳だが、人によっては早い場合もあると聞く。
「いや、進んでるよ。絶対」
「んー」
言われてみればそんな気もする。
おでこの左右の生え際が、少し広い。
でも昔からこんなもんだと言われたらそんな気もする。
わざわざ自分の生え際なんて、普段見ることもないし。
「これは、早く対策考えないといけないね」
麻美子はなぜか俺以上に前のめりの姿勢だった。
俺の彼女の麻美子は、自慢じゃないが可愛い。
理想のタイプだった。
俺はムダ毛への意識が低い女子が好きではない。
麻美子は長く一緒にいる俺の前でも油断せずに、しっかりムダ毛を剃っている。
さらにこうして、俺に対して献身的になってくれるのだ。
「そんなに彼氏がハゲるのが嫌か?」
「そりゃ、将来が心配になるし。大丈夫、ハゲても好きだよ」
それならいいが。
「対策ってどうすればいいかな。俺の頭皮」
「まずは効果のありそうなシャンプーを使ってみようよ。なんかいいやつないか、調べて買ってくるね」
それはありがたい。
俺が選ぶより、きっといいのを選んできてくれるだろう。
次の日、麻美子は近所の薬局の袋をさげて帰ってきた。
「いいやつ見つかった?」
「うん。このシャンプーを使えば頭皮がすごく潤うんだって。でもね、ネットで情報を集めたら、もちろんシャンプーは大事なんだけど、それよりも頭のマッサージが大切みたい」
「へぇーそうなんだ」
「だから、今日から私がシャンプーしてあげる」
「は?」
「自分じゃうまくできないでしょ?」
「そうだな……」
それから、麻美子は俺が風呂の時間に浴室に入ってくるようになった。
スウェットの下をまくって、服を濡らさないようにしながら、器用に俺のシャンプーをする。
もちろん、買ってきたシャンプーを使ってだ。
麻美子の指使いはまるで美容院のようだった。
絶妙に心地いい。
「上手だな」
「でしょ? それも調べたんだ」
「シャンプーのやり方を?」
「そう。動画とか見てね」
なんと熱心な彼女だろう。
彼氏のためにここまでやってくれるなんて。
こんないい彼女、別れる理由などない。
麻美子がシャンプーをしてくれる日々が半月ほど続いた。
毎日飽きずに俺の髪を洗ってくれている。
「どう? 自分で効果ある感じする?」
「どうだろな。前よりちょっと頭皮に潤いがある気がする」
いいシャンプーの効果か、少し触った感じが違う気がする。
「私もシャンプーしてあげるようになってから、自分の手まで潤ってる感じするよ」
「ほんとか? 麻美子は影響受けやすいからな」
麻美子はなんでもすぐに影響を受けるタイプだから、思い込みかもしれない。
だけど、シャンプーにいい成分が入っているのは事実だろう。
そんなある日、麻美子はまた新しいアイテムを買って帰ってきた。
「シャンプーの後にやるべきなのが、この育毛エッセンスらしいよ」
買ってきたボトルを俺に見せる。
髪を乾かした後にそれをつけるといいらしい。
「なんか、この歳で育毛ってやだなぁ」
「何言ってるの。早めに始めるのが大切なんだよ。私が塗り込んであげるから」
その日からシャンプーをしてくれるだけでなく、お風呂上がりに髪を乾かした後、麻美子は育毛エッセンスまで塗り込んでくれるようになった。
液体をたっぷり手に出して、それを俺の頭皮に塗っていく。
それと同時に、指先で入念にマッサージしてくれる。頭皮にしっかりと成分が擦り込まれていくようだ。
気持ちいい。
「こうやって、頭皮の筋肉を動かす必要があるんだって」
「へぇー。効果ありそうだな」
「きっとあるよ」
逆に、ここまでしてもらってハゲてしまうと、なんだか申し訳ないなと思った。
それから一ヶ月が経った。
麻美子はシャンプーとエッセンスを使ってのマッサージをまだ続けてくれている。
でも、俺の生え際は最初の頃とあまり変わらない様子だった。
「んー、あまり変化ないなぁ」
鏡の前で、マッサージをされている自分の頭を見ながら俺は言った。
「毎日見てるから気づかないだけで、実は結構増えてたりするんじゃない? 知らないうちに生えてるもんだよ」
「そうかな。まぁ、確かに少しずつの変化だったら、自分じゃ気づかないよな」
きっと久しぶりに見た人は、その変化がわかるんだろう。
もし、誰かに言われたら麻美子に報告しよう。
「はい、今日のマッサージ終わり」
「ありがとう」
立ち上がろうとした時、ふと一瞬、黒いものが視界に入った気がした。
なんだろうと思って振り返る。そして、俺は気づいてしまった。
マッサージをしていた麻美子の両手の指先から、大量の毛が生えていることに。
俺は別れを決意した。