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おふろ×アイデア

バスポート

2020-01-11

WEAVERのドラマー、そして小説家である河邉徹による、

お風呂をテーマにした不思議で面白いショートショート連載!第8弾!

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「バスポート」

 

 

寒い冬の日だった。辺りが暗くなるのはもう早かった。
仕事の帰り、濱家はコートの前をしっかりしめて、駅からの道を歩いていた。
「今日も早く仕事が終わって良かった……」
歩きながら濱家は呟いた。あまり仕事が遅くなっては、困る事情があったのだ。
駅から少し離れた住宅街は、道を一本中に入ってしまえば人通りはほとんどない。一人細い道を歩いていると、濱家は少し先に、誰かが壁際で椅子に座っているのを見つけた。椅子の前には折りたたみ式の小さな机が置かれており、その上にはランタンの光が灯っている。近づくと、椅子に座っているのは老婆であることがわかった。
……占いか?
たまに、大通りでは占いを見かけることもあったが、こんな場所で珍しい。
濱家は不思議に思いながらも、その前を通り過ぎようとした。その時、机の前に立てかけられた看板に、意外な言葉が書かれているのに気がついた。
「にゅうよく……ざい?」
擦り切れた平仮名で、看板には「にゅうよくざい」と書かれている。机の上に目をやると、色とりどりの石鹸のようなものが並べられている。
「一つどうかね?」
老婆は顔を上げずに、声だけで濱家にすすめた。
「入浴剤か……」
濱家は少しだけ考えてから続けた。
「俺はお風呂は好きだが、あまり家の風呂は入らないんだよな。毎日銭湯に行くようにしてるんだよ。今日もこれから、近所のところに行く予定だ」
それが濱家の日々の楽しみだった。あまり仕事が遅くなると、銭湯は閉まってしまう。いつも早めに帰りたい理由はそれだった。
「そうか、それなら大丈夫じゃ。お風呂に入るのは良い。いい子じゃな」
不気味な婆さんだな、と濱家は思った。いい子だと言われ、子ども扱いされたような気持ちになった濱家は、少し言わなくていいことまで言いたくなった。
「近所にはいくつか銭湯があってな。一つは結構新しい銭湯なんだが、裏口の鍵がいつも空いてるんだよ。だからそこから入れば、いつでも金を払わずに銭湯を使える」
「……」
老婆は濱家の言葉を黙って聞いている。
「他にも、番頭のジジイがちょっとボケてる銭湯もあってな。そこもタイミングを見計らって入ったら、金は払わずに済むんだ。いいだろ」
「……」
「俺はいつもそうやって、タダで使える銭湯を探してるんだ」
「……そんなにお風呂が好きなら、特別なものをあげよう」
しばらく黙っていた老婆は突然そう言った。後ろに置いてあるダンボールから、何かを取り出す。
「これじゃ」
そう言って渡されたのは、紙のカードだった。濱家はそこに書いてある文字を読んでみる。
「……バスポート?」
カードには、確かに「バスポート」と書かれていた。
「そうじゃ。それを見せれば、どんな風呂でも入らせてもらえるようになるんじゃ」
「なんだそれ? こんなジョークグッズも売ってるんだな。いくらするんだ?」
「……あげよう」
「そうか。ま、もらえるならもらっとくよ」
「ただ、注意して使うことだな。そのバスポートは濡れてしまうと……」
「はいはい、ありがとな。今度試しに使ってみるよ」
ボケた婆さんが何か言ってる。そのくらいにしか思わずに、濱家はバスポートをポケットに突っ込んで、そのまま歩いて帰った。

そしてその夜、濱家はいつものように銭湯に向かった。
そして普通の入り口ではなく、裏口から銭湯に忍び込む。いつもしていることなので、別段警戒する気持ちもなかった。しかし、この時はタイミングが悪かった。中に入って数歩進んだところで、偶然にも見回りに来ていた番頭に話しかけられたのだった。
「あれ? 君は、もしかして今裏口から入ってきたのか?」
声をかけられて、濱家は焦った。
「あ、いえ、ちょっと間違えてしまって」
「いや、君はたまにここを使ってるよね。見たことがある。もしかして、いつも裏口から入ってきていたのか」
「いえ、今回だけたまたま入り口を間違えてしまって」
「たまたま裏口から入ったのか? ちょっと、とりあえず警察に通報させてもらうよ」
これはやばいと思った。言い訳を考えながらポケットに手を入れると、何かが指先に当たった。そして濱家は苦し紛れに言った。
「あの、実はこういうものを持っていて……」
とっさにさっきもらったバスポートをポケットから取り出して、番頭に見せる。
「なんだこれは?」
「えっと……バスポートと言いまして」
こんなジョークグッズが通用するはずがない。そう普段なら思うところを、濱家は少しパニックになっていた。しかし、意外な言葉が返ってきた。
「……なんだ、持っているなら早く言ってよ。どうぞ」
バスポートを確認すると、番頭はそのまま何事もなかったように歩いて行った。
残された濱家は、バスポートを手に持って呆然としていた。

 

銭湯に入りながら、濱家は考えた。まさか、本当にあのカードに効果があるというのだろうか。
濱家は気になって、じっとしていられなかった。少しだけ湯船に浸かると、すぐに銭湯を出た。そして今度は近くの別の銭湯に向かった。そこは昔ながらの銭湯で、おじいさんが番頭をしているところだった。
濱家は、今度は堂々と入り口から入った。番頭に座っているおじいさんは、メガネをかけて新聞を読んでいるところだった。
「すみません、このカードを持ってるんですけど……」
濱家はカードを見せながら話しかけた。おじいさんはメガネに手を当てて、カードに顔を近づける。
「……どうぞ」
そう言って、おじいさんはまた新聞を読みだした。

 

 

バスポート。つまりこれは風呂専用のパスポートのようで、どんな風呂も入らせてもらえるようになるカードということらしい。
不思議だ、と濱家は思った。一つの銭湯で使える無料カードならありえるかもしれないが、どんな風呂でも通用するなど、一体どうなっているのだろうか。
とはいえこれを利用しない手はない。せっかくこんな便利なものを持っているのだ。濱家は、もっと値段の高い銭湯に行ってやろうと思った。
早速次の日、隣駅にある様々なサービスが付いているスパにやってきた。元々存在は知っていたが、入場するだけでも結構値段が高いので、これまで行ったことがなかった。まさか、ここも入れるのだろうか。
靴を脱いで受付に行く。横に券売機があるが、そこは無視して受付の女性に話しかけることにした。
「これ、使えますよね」
弱気な態度を見せるのはいけないだろう。濱家は堂々とカードを見せた。
「もちろんです、どうぞ」
女性は当たり前のように、そのまま通してくれた。内心、濱家は小躍りしながら施設の内部へと進んだ。ここでも使えるのか。これはすごいぞ。
館内案内図を見ると、様々な風呂があった。脱衣所の手前には受付の男が立っていて、濱家はそこでもバスポートを見せながら入った。当然止められることはなかった。
最高だ。こんな充実した施設を無料で使えるなんて、やめられない。
浴室には何種類も温泉があった。濱家はそれを手前から順番に浸かっていき、さらにサウナまで楽しんだ。そしてふと、あの老婆のことを思い出した。この不思議なバスポートの仕組みを、教えてもらいに行くべきだろうか。
しかし、こんな便利なものだ。もしかすると返せと言われてしまうかもしれない。誰にも言わずに、使い続けた方がいいに決まっている。

 

 

さらに冷え込んだ寒い冬の夜。濱家は駅からの道を歩いていた。
「今日は随分遅くなってしまった」
その日は仕事が遅くなり、近くの銭湯は全て閉まっている時間だった。しかし、ちょうど疲れた時にこそ広い風呂に入りたいものだ。
「何か方法はないだろうか……」
そこでふと、濱家は思いついた。
あの老婆は、これさえあればどんな風呂にも入れると言っていた。ということは……。
帰り道、住宅街の中でも、飛び抜けて高級なマンションがあった。高層ではないが、一つ一つの部屋がとにかくでかいらしい。
濱家はそこのエントランスに入ってみた。とても贅沢な造りになっていて、大きなオートロックの扉の向こうにコンシェルジュがいる窓口があった。
濱家は扉の手前にある集合インターフォンに、適当な部屋の番号を入力して、「呼出」ボタンを押した。ピンポーン、と間延びした音がエントランスに響く。
「はい」
「あの、お風呂に入らせて欲しいんですが」
「はぁ?」
スピーカーから聞こえる男性の声には、明らかに、お前は誰だという怪訝そうな感情が込められていた。
「実はこれを持っていまして」
バスポートをカメラに向けながら、濱家は言った。
「……ああ、どうぞ入ってください。今用意しますね」
ウィーン、とオートロックの大きな扉は開いた。
濱家は、やはり、と確信を得た気持ちだった。

 

 

玄関で迎えてくれたのは、身だしなみの綺麗なおじさんだった。
そして案内された風呂は、家の中の風呂とは思えないほどに広かった。脱衣所との間には透明なガラスがはめ込まれている。浴槽にはジャグジーはもちろん、壁に巨大なテレビが埋め込まれていた。金持ちは毎日こんな風呂に入っているのかと驚かされる。
普通に暮らしていては、一生入ることのできないような風呂だろう。それに、このバスポートさえあれば入ることができる。しかも、金持ちが準備までしてくれるのだ。
一生入れない風呂に、もっと入ってやる。
一生入れない風呂……。そこで、濱家は思いついた。
まさかこのバスポートがあれば、女湯に入ることもできるのだろうか。

 

 

濱家は隣駅のスパにやってきた。
受付で、バスポートを見せて当たり前のように入る。
そして、男湯と女湯の脱衣場の前にある、もう一つの受付までやってきた。勇気を出して、女湯の方へと足を進める。
「あの、あなたは……」
受付の男に、呼び止められる。
「これを持っていますよ」
濱家はバスポートを見せた。
「あ、そうでしたか。どうぞ」
やはり女湯にも通してもらえるようだった。バスポートの力は絶大だ。
脱衣所には、まだ人はいなかった。だが、男の脱衣所とは違う、少し甘い匂いがする気がする。
服を脱ぎ、バスタオルを巻いて、浴室に向かう。誰かに声をかけられても、すぐにバスポートを見せられるように、濱家は手に持って中に入った。
早い時間に来たせいか、入り口の近くの浴槽には誰もいないようだった。濱家は、とりあえず手前にある浴室に浸かってみる。
そして入り口の方を眺め、誰かが入ってくるのを待っていた。

 

濱家の興奮は最高潮だった。今女湯に入っている。男の夢が叶っているのだ。
それにしても、このバスポートには一体どんな力が……。
「おっと」
手を滑らせて、湯船の中にバスポートを落とした。すぐに取ろうと濱家が手で掴むと、なんとバスポートは水に溶けるように霧散してしまった。
「や、やばい!」
その時、入り口から何人かの女性の話し声が聞こえてきた。
濱家は焦って、湯船の中に潜った。バスポートがない今、バレたら捕まってしまう。
浴室に入ってきた女性たちは、話しながら奥の方へと歩いて行ったようだった。
もう顔を出していいだろうか。
濱家はおそるおそる湯から顔を出した。
「ひっ」
同じ湯船の中に、誰かが座っていた。
「……濡らすといかんと言ったじゃろう」
あの日、バスポートを渡した老婆が、そこに座っていた。

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河邉徹

WEAVERのドラマーで小説家。お風呂は一日に何度も浸かる派です。 おふろ部では、お風呂の魅力が伝わるような物語を書いていけたらと思っています!

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