「お風呂の国」
家の湯船に浸かっていた。
ゆっくりと、考え事しながらお風呂に入るのが日課だった。
長湯をすると、お湯が少し冷めてしまうことがある。
僕はぬるいお湯が嫌いだ。
この風呂には追い焚き機能がないので、僕は熱いお湯を足そうと、蛇口に手を伸ばした。
「あれ? 出ない?」
蛇口をひねってもお湯が出ないのだ。なぜだろう。
そのとき、微かな振動が自分の尻の下から伝わってきた。
思わず下を見るが、何もない。
今度は、ズゴゴという低い音も聞こえ始めた。
「わっ、なんだ」
突然、足元から急激にお湯が吸い込まれていく。栓が開いたのか?
いや、それだけでこんなに体が引っ張られるほど吸い込まれるわけが……。
その勢いは強くなり、まるで体が巨大な渦に吸い込まれるようだった。
お湯に引き込まれ、目を開けていられない。一瞬視界が真っ暗になった。
どん、とお尻に衝撃を受けた。どこかに落ちたようだった。
ゆっくりと目を開けると、赤い絨毯が視界に入った。
「おお、来た来た」
少し離れたところから声がした。
「入浴をお楽しみのところすまんな。少し意見を聞きたくてこちらに来てもらった」
「ここはどこ……ひっ」
声の主を見て、僕は仰天した。
「ろ……ロウソクが喋ってる!」
なんとロウソクに手足が生え、顔がついたものが喋っていたのだ。
貴族のような格好をしているが、頭の上には火がついている。
身長も人間と同じくらいだ。
「ただのロウソクではない。私はガス大臣じゃ」
「ガス大臣?」
周りを見渡すと、そこは西洋風の部屋だった。
赤い絨毯が全体に敷かれていて、白い壁には美しい模様が描かれている。
高い天井を見上げると、そこには小さな天使の彫刻が取り付けられており、さらにシャンデリアまで吊るされている。
そして部屋の真ん中には、アンティークの長方形の大きなテーブル。
まるで王宮の会議室のようだが……大きなテーブルを囲んでいる者は、みな普通ではなかった。
まず、さっき話しかけてきたのはロウソクだ。
ガス大臣と言っていた。
議長席に座っている。
その向こうに、まるで石鹸のように白く真っ白な物体に、顔がついて手足が生えたやつ。
さらにバスタブが直立で立っているような物体に、手足が生えたやつ。
逆サイドには、石鹸と形が似ているが、固形の入浴剤のような物体に顔と手足がついたもの。
そしてその奥に、ピンク色のドレスを着た、人間の女性……?
そこでふと、自分が裸であることに気がつく。
今さらだが、僕は両手で体を隠した。
「恥ずかしがる必要はない。ここにおる全員にとって、それを恥ずかしいと思う感覚はない」
「そ、そうなんですね」
とは言え、全裸でこんな風に人と会話した経験はない。
そんなにすぐに開放的な気持ちになれない。
「お、今回は貧弱な男が来たもんだな。そんなやつで大丈夫なのか?」
僕を見てそう言ったのは、固形の入浴剤だ。
「入浴剤議員、まぁそう言うな。ここはまず、このガス大臣が彼に説明をしよう」
説明。助かる。今自分の身に何が起こっているのか、さっぱりわからない。
「ここは、お風呂の国じゃ。お風呂の国では意見が割れた時に、人間界から一人人間を召喚して、判断を求める決まりになっておるのじゃ」
「はぁ……」
自分は不幸にも召喚されたということか。
「意見が『割れる』だなんて、不謹慎な言葉を使うな!」
石鹸が何かを言っている。
「そ、そんなつもりではない。まず彼に、みんなの紹介をさせてもらおう。ここには、それぞれの立場から選ばれた代表が集まっておる。わしがガス大臣、手前から順に、石鹸小僧、バスタブリン、逆サイドに入浴剤議員、シャンプー姫じゃ」
夢でも見ているのかもしれない。いや、夢に決まっている。
なんだこいつら。
「えっと……何で意見が割れているんですか?」
「そうじゃ。実は、最近人間界ではシャワーだけで済ませようとする者が多いようでな。どうやってお風呂に浸かる人間を増やそうかと議論していたんじゃが……」
「そんなもの、個人の自由だ。どうだっていい!」
入浴剤議員が言った。そうだそうだ、と石鹸小僧も言う。
「えっと……そういう意見があるみたいですが……」
僕は大臣の顔色を伺う。
「そうなのじゃ。その気持ちも分かるんじゃが、お風呂の需要がなくなると、この『お風呂の国』も元気がなくなってしまう。国民は皆、幸せにならんといかん。なにより需要がなくなるバスタブリンがかわいそうじゃ」
「僕は……もうこの世界に必要ないと思います……」
バスタブリンと呼ばれた大きなバスタブが、低く、悲愴感に満ちた声を出す。
「こんな悲観的になっとる国民がおるのに、わしはこのままではいかんと思うのじゃ。シャンプー姫はどうかね」
「私は正直関係ないですわ。どちらにしても、自分は困らないですし」
シャンプー姫は手鏡を覗き込みながら、長いサラサラの髪を撫でている。
会議には出席しているが、見るからに興味がなさそうだ。
「そんなことよりも、我々の待遇を良くしてください。毎日擦り減らして暮らしてるんだ!」
石鹸小僧が声をあげる。そうだそうだ、と入浴剤議員が野次を飛ばす。
それから、入浴剤議員は思いついたように言う。
「そう言えばこの前、ガス大臣は人間にお湯を溜めてもらうことで、私腹を肥やしているという報道もありましたね」
「なっ、そんなことがあるんですね。許せない」
石鹸小僧が怒りに震えている。
「そ、そんな証拠がどこにあるんじゃ。そもそも、入浴剤議員だって、人間にお湯を溜めてもらわないと困るじゃろう」
「あらホントね、入浴剤議員はどうするのかしら?」
「私のことはどうでもいいんです。私は国民のためなら、自分の身さえ削るつもりです」
「いや、それはおかしい。湯を溜めない方が、入浴剤議員は自分の身を削らなくて済んで都合がいいんじゃな」
「違います! 大臣の発言はいちいち不謹慎です。今すぐ謝るべきだ! 石鹸小僧さんもそう思いませんか。彼らはいつもすり減らして頑張っているんです」
「そうだ!」
お風呂の国。
ここではあまり建設的ではない議論が行われているようだ。
「こういう時こそ、人間の意見を聞くのよ」
「えっ……」
全員が、早く何か答えろ、と言わんばかりの鋭い視線をこちらに向けている。
「あ、あの……お風呂に浸かるのは体にいいですし、僕は良いことだと思いますよ……」
そう答えた時、部屋の扉が開いた。
「遅れてすまんな」
現れたのは、マントを身にまとった物体だった。
頭はシャワーヘッドのように白くて大きく、その下に細い体がついている。
あれはまさか……。
「シャワー伯爵、お待ちしておりました」
シャワー伯爵は上品な身のこなしで、空いている席に座った。
「話は聞いている。今回の件は、私がバスタブの者に、給付金を授けよう。それで問題ないのではないだろうか」
「あ、ありがとうございます。バスタブリン、それで今回は我慢してくれるじゃろうか?」
みんなの視線が、バスタブリンに向けられる。
「まぁ、補償さえいただければ……こちらは何も文句はありません」
ガス大臣は安心したような表情を浮かべる。
「……チッ、チャンスだったのに」
一方で、入浴剤議員は小さな声で不満そうに呟いた。
今回の議論を利用して、大臣の失脚を狙っていたらしい。
どこの世界も似たようなものだ。
「あー、これで解決よね。私もう帰るわ。エステの予約に遅れちゃうの」
シャンプー姫が席を立つ。
それを合図に、全員が順に席を立っていく。
「あの、僕は……」
ガス大臣が、まだいたのか、という感じでこちらを見る。
「帰るには、そこのパイプに顔を近づければ良い。人間界からご苦労じゃった」
天井から、透明なパイプが伸びている。
僕はなんだか損したような気持ちで、パイプに顔を近づけた。
その途端、来た時と同じような、全身が何かに吸い込まれる感覚に襲われた。
視界が真っ暗になる。次に目を開くと、僕はもう元の湯船に戻っていた。
お湯は完全に冷めて、ぬるくなっていた。