「イケメン風呂」
「い……E判定?」
舞は学校で、模試の結果を受け取って愕然としていた。
「もうダメだ……」
高校三年生、夏の模試の結果がこれでは、もうどうしようもない。
現役生は直前の追い上げが強いという噂もあるが、そこまで頑張り続けられる自信はなかった。
親は成績を良くするために、授業料の高い塾にも行かせてくれている。
それなのに、その結果がこれだ。
モチベーションがなくなっているのが自分でもわかる。
奮い立たせてくれる何かがないと、勉強する気が起きない。
舞が落ち込みながら、トボトボと学校帰りの道を歩いていると、路地の先に古ぼけた本屋を見つけた。
いつからあったのだろうか。いつも歩いていた道のはずなのに、ずっと気がつかなかった。
アンティークな外観に惹かれて、舞は本屋に近づいてみる。
扉の上の看板には「ふる本屋」と書かれていた。古書店ということだろう。
扉を開けて中に入ると、紙の匂いと、仄かにシャンプーのような甘い香りがした。
「いらっしゃい。よく見つけたね」
背の高い、細身の男性が立っていた。色白の肌に切れ長の目、そして高く通った鼻筋。
かなりのイケメンだ……。舞は自分の体温がわずかに上がるのを感じた。
「おしゃれなお店ですね」
「ありがとう。君は本が好きかい?」
そう尋ねたイケメン店員の顔に、舞は見とれていた。ずっと見ていられる、美しい顔だ。
「……君、可愛い顔をしてるね」
不意に店員がそんなことを言った。意外な言葉に舞はドギマギとした。
急にそんなことを言えるなんて、やはりイケメンはすごい。
「そ、そんなことないです」
「そんなことあるよ。学校でモテるでしょ。何かお探しの本はあるかい?」
舞は本棚に視線を送った。眺めているようで、ほとんど視線で撫でているだけだ。
「えっと、本、是非読みたいんですが、私は今受験生なんです。勉強しないといけないんで、受験が終わったら、また来ようと思います」
「なるほど、参考書なんかも一応取り揃えているよ。ほら、そっちの棚に」
舞は参考書の棚に目をやった。様々な種類の参考書が揃えられていたが、なぜか全部ページ数の少ない、薄い参考書ばかりだった。
読みやすそうだな、と思う。だけどこれ以上勉強しても、今の自分は成績をのばせないような気がする。
「君は、イケメンは好きかい?」
突然そんなことを訊かれて、舞は一瞬言葉に窮した。そして「え……まぁ」と曖昧に肯定するような返事をする。
「そこにある参考書はそんな君にオススメだから、買ってみるといいよ」
「は……はい、買います」
イケメンにそう言われては、もう買うしかない。舞はすぐにそれを購入した。
「では、楽しいバスタイムを」
彼は爽やかに、そう言った。
「バスタイム? どうしてですか?」
「ん? 普通に、お風呂を楽しんでねってことだよ」
「なんで古本屋なのに、お風呂なんですか?」
「古本屋? 違うよ、よく見てごらん。ここは『ふろ本屋』だ。間違えて来たのかい?」
「え?」
「看板を見てきてみなよ」
舞は店の外に出て、看板を確認した。確かにそこには「ふろ本屋」と書かれている。「る」ではなく「ろ」だ。ややこしい。こんなの見間違えるに決まってる。
「じゃあ、ふろ本を売ってるってことですか?」
「その通り。その参考書も、お風呂で読むといい」
「なんでお風呂なんですか?」
「そりゃあ、お風呂で浸かってる間に本を読む人は多いんだよ。その時間がより楽しくなる本を揃えたいと思ったんだ。君が今持ってる参考書も、お風呂で勉強できる用に作られたんだよ」
はぁ、と舞は力なく返事した。
「では、楽しいバスタイムを」
およそ書店員のセリフではないようなことを言って、彼は舞に微笑みを向けた。
舞は首を傾げながら、買った本を持って家に帰った。
勉強しなければいけない。でも、やる気が出ない。舞は自室の机の前でうなだれていた。
今日はイケメンと話せて嬉しかったが、厳しい現実は続いている。
とりあえず、お風呂に浸かって頭をスッキリさせよう。ちょうど、お風呂で勉強する用の参考書もある。
お湯を溜めて、舞は湯船に浸かって参考書を開く。
まず、開いたところに書いてある参考書のタイトルに驚いた。
「イケメン参考書?」
どうやらその参考書には、随所にイケメンのイラストが描かれており、その吹き出しで解説をしてくれているようだ。
今は色んな参考書があるんだなと思った。しかも、心なしかさっきの店員に似ている気もする。
買ったのは、イケメン参考書というシリーズの中の、歴史の参考書だった。歴史は舞の一番苦手な科目だ。
一ページ目から読み始める。あまり期待してなかったが、意外と解説がしっかりしていて読みやすい。
お風呂はそれ以外のことができないので、読むことに集中できる。
順番に解説を読み、ついに最後のページまでたどり着いた。
ページ数が少ない理由は、頑張れば一回の入浴で最後まで勉強できるからかもしれない。
しかし最後のページをめくると、予想外のことが書かれていた。
[この参考書を、湯船の中に入れてください]
え? 参考書を?
舞は訳が分からなくなった。
こんな、紙でできた本を湯船に入れていいはずがない。もしかして防水仕様なのだろうか。
舞は試しに、その本の端だけお湯に浸してみた。
すると、本の端が光って湯の中に溶けていく。不思議な出来事に、舞は驚いて手を離した。
湯船に落ちた参考書は、みるみるうちにお湯の中に溶けていく。
舞は焦って本を掴もうとしたが、全く摑むことができず、参考書はお湯の中で影も形もなくなった。
「どうしよう……」
そう呟いた途端、湯船の外、洗い場から男の声が聞こえた。
「どうも、最後まで読んでくれてありがとう。勉強頑張ったね」
なんとそこには、あのふろ本屋のイケメンが立っていたのだ。
舞はとっさに洗面器で自分の体を隠す。でも、まさか。どうかしてしまった。
勉強のし過ぎで、イケメンの幻覚を見ているのかもしれない。
「最後まで勉強を頑張った子は、しっかり褒めてあげないとね。偉い偉い」
イケメンがその手で舞の頭を撫でる。火照った顔がさらに火照る。
夢心地のままその綺麗な顔を眺めていると、イケメンはすっと湯気の中に消えていった。
次の日、舞はふろ本屋にもう一度訪れた。
「おっ、昨日も来たね。勉強はできたかい?」
「はい、ですが……」
「何かあったかい?」
「えっと……」
説明しようとしたが、舞は本人を前にして急に恥ずかしくなった。すると、イケメン店員が口を開く。
「あの参考書には、最後まで頑張れた子にご褒美が与えられるようになってるんだ」
「そ、そうなんですね……」
舞は恥ずかしくて、店員を直視できない。
「あの……昨日の参考書の続きってありますか?」
「もちろん。たくさん勉強して偉いね。きっと結果に繋がるよ」
「私……勉強頑張るので、昨日のシリーズを、ここにあるだけ買ってもいいですか?」
「もちろんだよ。お買い上げありがとう」
イケメン店員は嬉しそうに微笑んだ。
それから舞は頑張った。
毎日、勉強した分だけイケメンに会えると思うと、モチベーションは上がった。
すべての勉強を終えると、また新しい参考書を買いに行った。
親と話して、塾をやめてその分のお金で参考書を次々と買った。
結果舞は成績をメキメキと伸ばしていき、遂に受験に合格した。
合格できたのは、すべてあのふろ本屋のおかげだ。舞はお礼を伝えに行こうと思った。
「あの……おかげ様で、合格することができました」
「よかったね。おめでとう」
「ありがとうございます」
お礼を言いながら思った。合格できたから、もう参考書を買う必要はないのだ。
勉強しなくていいのは嬉しいが、イケメンと会えなくなるのは寂しい。店でも、お風呂でも。
「この店、バイトとか募集してないですか?」
「ん? どうして?」
「これから大学生になるので、私、ここで働かせてもらえないかなと思って」
断られるだろうか……。そう不安に思っていた舞だったが、返ってきた言葉はとても意外なものだった。
「そうか。それは助かるよ。だって……」
イケメン店員は、爽やかな笑顔を浮かべながら言った。
「ちょうど、美女参考書を作ろうと思っていたところだったんだ」