にゅうよくざい

おふろ×アイデア

にゅうよくざい

2019-06-01

WEAVERのドラマー、そして小説家である河邉徹による、

お風呂をテーマにした不思議で面白いショートショート連載!第1弾!

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「にゅうよくざい」

それは寒い冬の日のことだった。

いつものように残業で遅くなった山内は、暗い夜道を家に向かって歩いていた。

ここのところ、遅くまで仕事をする日が続いている。

家に帰っても、さっとシャワーを浴びて寝るだけで、朝が来るとまた会社に行く。

毎日その繰り返しだ。最近は疲れのせいか、寝つきも悪くなってきていた。

短い睡眠では取れなかった疲れが、少しずつ体に蓄積されているようだった。

 

「海外旅行にでも行けたらいいんだが……そんな時間もお金もないか」

 

昔は海外旅行が趣味だった。知らない街を歩き、美しい景色に触れると、心が解放されるようだった。

だが、もう長い間そんな余裕はないままだ。転職する勇気もないまま、いい歳になってしまった。

体に冷たい風が吹き付ける。最寄駅から家までの道は、いつもこの時間になるとほとんど人通りがない。

細い路地の左右の塀には、誰かが貼った数枚のチラシが雨風に晒され汚くなっていた。

不動産の広告、脱走したペットの情報。

その中でも、一つ異色なものが山内の目に入った。

 

[お風呂に浸かりましょう]

 

手書きで、ただそう一言だけ記された張り紙だった。

張り紙の右下には[風呂]という文字を丸で囲んだ、味のあるロゴのようなものがある。

同じ塀に貼られている他のチラシに比べても新しい。

最近、これに似た広告を電車でも見かけた気がする。どこかの団体が貼っているのだろうか。

疑問に思いながらも、山内がいつものように、途中で一つ角を曲がった時だった。

細い道の先に、誰かが壁際で椅子に座っているのを見つけた。

椅子の前には折りたたみ式の小さな机が置かれており、その上にはランタンの光が小さく灯っている。

少し近づくと、椅子に座っているのは老婆であることがわかった。

 

……占いか? こんな人気のない場所で店を出すなんて珍しい。

 

不気味に思いながらも、山内はその前を通り過ぎようとした。

すると机の前に立てかけられた看板に、意外な言葉が書かれているのに気がついた。

 

「にゅうよく……ざい?」

 

擦り切れた平仮名で、看板には「にゅうよくざい」と書かれていたのだ。

机の上に目をやると、色とりどりの石鹸のようなものが並べられている。

占いではなかった。あまりに以外だったので、山内は思わず老婆に声をかけた。

 

「……ここで入浴剤を売っているのか?」

 

山内が話しかけても、老婆は俯いたまま微動だにしない。

 

「見ての通り……」

 

そのままの姿勢で、ただ一言だけそう呟くのだった。

こんなところで入浴剤を売っているだと?

露店で入浴剤を販売しているのなど見たことがない。

あまりに不自然だ。

関わらないほうがいいだろう。

そう思い、山内が背を向けて足を踏み出した時だった。

 

「……湯船には浸かっとるか?」

 

後ろからそんな声が聞こえた。自分に向けられた質問だとわかった。

 

「……いや、ずっと浸かっていないな」

 

山内は振り返って答えた。

思えば、もう長い間湯船には浸かっていない。

これだけ忙しいと、その時間さえももったいないような気がしてくるのだ。

 

「……それなら、今日は浸かるとええ」

 

老婆はこちらに顔を向けるでもなく、そう言った。

つまり、ここにある入浴剤を買えということだろうか。

しかし老婆の言葉は、営業というよりもむしろ、ただ助言をしているかのような響きがあった。

 

「いい入浴剤なのか?」

 

「……良質じゃ」

 

山内は少し好奇心が湧いてきた。

楽しいことのない毎日の中で、こんな場所で入浴剤を買うというのも一つ面白いだろう。

 

「それなら……これを、一つ」

 

山内は並べられている入浴剤から、適当に一つを指差して言った。

 

「ゆっくり浸かりなさい……」

 

老婆は怪しい笑みを浮かべながら、入浴剤を手にとって差し出した。

 

家に帰って、山内は早速お湯をため始めた。

いつぶりにお風呂をためるのだろう。

風呂に入る為に待つことなどなかったので、どう過ごしていいのかわからず、脱衣所から湯のかさが増えていくのを眺めていた。

頃合いを見て、山内は買ったばかりの入浴剤を湯船に投げ入れた。

もわもわと泡が立ち、馥郁とした香りが浴槽に広がる。

 

「……悪くないかもしれないな」

 

服を脱いで浴室に入ると、気温差のせいか、濃い湯気が立ち込めていた。

足からお湯に浸かると、冷えた足がじんと麻痺したような感覚に包まれる。

ゆっくりと肩まで体を沈めていくと、なめらかな湯ざわりが心地よく、思わず深く息をついた。

久しぶりに浸かった湯船は、どこか懐かしいようでもあった。

夜風で冷えた体が、芯まで温まってくる。入浴剤には温浴効果を高める作用もあるのだろう。

山内は目を閉じて、お湯に体が包まれる感覚を楽しんでいた。

しかしそれからしばらくすると、異変が起こり始めた。

 

「……なんだ?」

 

まるで幻覚を見ているように、目の前にどこかの景色が浮かび始めたのだ。

 

にゅうよくざい

 

夢か……?

 

思わず目をこすったが、自分は眠っているわけではない。

山内は湯でバシャバシャと顔を洗った。

それでも、湯気に包まれた浴室の中、景色はどんどん鮮明になっていく。

水辺に立った高い像。立ち並ぶ高層ビル。広い公園。

俺は頭がおかしくなってしまったのか?

山内は大きく首を振ってから、慌てて浴室から飛び出した。

すると、さっきまで見えていた景色は全て消え去って、いつも通りの脱衣所が目の前にあるだけだった。

一体どうしたのだろう。

久しぶりに湯船に浸かったせいで、湯に当てられたのだろうか。それにしても、幻覚など初めて見た。

いや……まさか、あの怪しい入浴剤のせいだろうか。

あの老婆が、おかしな薬でも配合したのかもしれない。

山内は気味が悪くなって、すぐに体を拭いて服を着た。

不思議な気持ちのまま床に就いたが、体はポカポカ温まっていて、その夜はぐっすりと眠ることができた。

次の日、仕事が終わって、山内はすぐに同じ場所へ駆けつけた。

しかし、昨日店があった場所には、店も老婆もいなくなっていた。

怪しい店がなくなって、それでいいはずだった。

そのはずなのに、山内はどこか惜しい気持ちになっていた。

もっとあの入浴剤を使ってみたい。

その夜、山内は入浴剤なしで湯船に浸かってみたが、やはりあの幻を見ることはなかった。

 

それから一週間が経ち、もうすでに店が現れる期待も薄れてきた頃だった。

帰り道に、いつもの路地を曲がると、以前と同じ場所で老婆が店を出しているのを見つけた。

山内は駆け寄って、老婆に問い詰めた。

 

「おい、これは一体なんだ?」

 

「……これとは?」

 

老婆はまた、微動だにせずに言うのだった。

 

「この入浴剤のことだ! 何かおかしな薬が入っているのだろう」

 

「入浴剤?」

 

「そうだ」

 

「……これは入浴剤ではない」

 

「入浴剤ではないだと? それならこれは何なんだ」

 

「……ニューヨーク剤じゃ」

 

「ニューヨーク剤……」

 

山内は慌てて立てかけられた看板を見た。

擦り切れた平仮名で、よく見ると「にゅうよーくざい」と書かれているようにも見える。

 

「これを入れた湯船に浸かると、ニューヨークの景色が見えるんじゃ」

 

老婆はことも無げに言った。

山内は驚きながらもふと思った。

なるほど、ぼんやりと見えた景色はニューヨークのものだったのか。

自由の女神、エンパイアステートビル、セントラルパーク。

 

「しかし……一体どんな仕組みなんだ?」

 

景色が見える入浴剤など聞いたこともない。いや、ニューヨーク剤なのか。

 

「それは秘密じゃ」

 

「そんな怪しいものを売っていいのか?」

 

「そんなに言うなら、もう店じまいにするかの」

 

老婆は台の上のニューヨーク剤を片付け始めた。

片付けられていくニューヨーク剤を見ながら、山内はこの前の体験を思い出し、黙ってはいられなかった。

 

「……待て」

 

山内の声に老婆は手を止めた。

 

「なんじゃ?」

 

「……二週間分もらおう」

 

老婆は満足そうにニヤリとした。

 

「ゆっくり浸かりなさい」

 

山内は袋にいっぱいのニューヨーク剤を持って帰ってきた。

それからというものの、毎晩ゆっくりと湯船に浸かるようになった。

習慣になってしまうと、お湯に浸かることが毎日楽しみになってくる。

湯船の中で、ビルの展望台からの景色を覗き、緑豊かな公園を歩き、ブロードウェイの空気を楽しんだ。

湯気の中で現れる海外の景色は、山内の心を癒した。

なかなか海外旅行に行けず、刺激のなかった生活の中で、心に元気を与えてくれた。

すると不思議なことに、毎晩ぐっすりと眠れるようにもなった。

その結果、日中も仕事に集中できるようになり、気持ちは晴れやかになってきた。

体の中から、力が湧いてくるようだった。

 

しかし、ニューヨーク剤を一つ、また一つと使うに連れて、湯気の中に現れていた景色は徐々に薄まっていった。

鮮明さを失い、最後の一つを使う頃には、ほとんどニューヨークの景色は見えなくなっていた。

山内は老婆に文句を言うことにした。

その夜、老婆はやはり同じ場所にいたが、なぜかもう片付けを始めていた。

 

「おい、買ったニューヨーク剤だが、段々景色が見えなくなってきたぞ。不良品じゃないか」

 

「おお、そろそろ見えなくなる頃じゃと思っておった」

 

「何だと?」

 

悪びれずに老婆が言うので、山内は驚いた。

 

「一体どういうことなんだ」

 

「……このニューヨーク剤はな、長い間お風呂に浸かっていない者だけが、その景色を見ることができるんじゃ」

 

「何?」

 

「これは、お風呂に浸かる習慣のない者が、その習慣を得る為に開発されたものなんじゃ」

 

説明されても、まだ意味がわからなかった。

 

「どうしてそんなものを……?」

 

「お風呂に浸かるのは体にいいことなのじゃ。その証拠に、お風呂に浸かるようになってから、よく眠れるようになったじゃろう? 体温が上がって、心も晴れやかになる。それなのに現代人は、忙しいだの理由をつけてお風呂に浸からん。だからこうして、わしらはお風呂に浸かる習慣を広めているのじゃ」

 

わしら? どこかの団体なのだろうか? 山内の頭に幾つもの疑問が浮かぶ。

 

「さて、この地域はお風呂に入る人が随分増えたようじゃな。次の地域に行くとしようかの」

 

老婆は荷物をまとめ始めた。ニューヨーク剤がどけられた机には、[風呂]という文字を丸で囲んだ味のあるロゴが、大きく描かれていた。

 

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河邉徹

WEAVERのドラマーで小説家。お風呂は一日に何度も浸かる派です。 おふろ部では、お風呂の魅力が伝わるような物語を書いていけたらと思っています!

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