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感謝の気持ち │ 河邉徹(WEAVER)

2021-01-11

WEAVERのドラマー、そして広島本大賞2020を受賞した小説家でもある河邉徹による、

お風呂をテーマにした不思議で面白いショートショート連載!第20弾!今回が最後です!

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「感謝の気持ち」

 

土曜日の夜、僕は久しぶりに実家の風呂に浸かっていた。
久しぶりの実家だが、家の中には自分以外に誰もいない。両親はこの週末の三連休を利用して、旅行に出かけてしまった。僕は留守を頼まれたのだ。飼っている熱帯魚に餌をやってくれと。
身勝手な話だが、そのくらいしてもいいかと思った。自分を育ててくれた両親に、ささやかだが恩返しになる。どうせどこかに出かける予定もなかったのだ。
見慣れた家の景色は何も変わっていない。この風呂もそうだ。湯船に浸かると、目の前には乳白色の壁がある。その壁を見て、僕はふと懐かしいことを思い出した。

 

子どもだった頃、実家では大抵父が最初に風呂に入った。しかしたまに、父が仕事で遅くなった時は、僕が先に入ることもあった。
風呂の湯船に浸かっている時に、僕は目の前の壁に、水滴が流れて落ちていくのを見つけた。湯気で水蒸気がついた壁を、水滴は線を描きながら流れていく。
僕が壁を指でなぞってみると、同じように薄らと線が壁に残った。子どもだった僕はその発見が楽しくて、壁に絵を描いたり文字を書いたりして遊ぶことを始めた。最後にお湯をかければ、書いたものは全て消すことができる。
ある日僕は、これを使えばこの後風呂に入る父に、普段言えない感謝の気持ちも伝えられるのではないかと思った。僕は濡れた風呂の壁を、指でなぞっていく。
「おとうさん、いつもありがとう」


その言葉を見た父から、どんな反応があるだろうかと思っていたが、その日父からは何のリアクションもなかった。そもそも湯船に浸かっても壁など見ないのかもしれないし、薄い文字なので気がつかなかったのかもしれない。書いた文字は水滴が流れて、形が崩れて読みにくくなる。
それでも僕はそれからも、自分が先に風呂に入る時には、何度か壁に文字を書いていた。

 

しばらくした頃に、ある日僕が風呂に浸かっていると、ふと壁に文字があることに気がついた。
「こちらこそ、いつもありがとう」
と壁に書かれていた。その日は父が先に風呂に入っていた。もしかしたら、ついに僕が文字を書いていたことに気がついて、返事をくれたのかもしれない。
風呂から出ても、無粋な気がして父とそのことについて話さなかった。だけどそれから、風呂の壁を通じて、何度か感謝の言葉の交換は続いた。

僕はそんな子どもの頃の懐かしい記憶を思い出しながら、壁を指でなぞった。そして「おとうさん、いつもありがとう」と、あの頃と同じ感謝の言葉を書いた。

 

次の日の夜、両親から連絡があって、渋滞で家に着くのは遅くなるということだった。僕は先に風呂に入っておくことにした。
僕が風呂に入っていると、不可解なことに気がついた。なんと壁に、新しい文字が書かれていたのだ。
「こちらこそ、いつもありがとう」
僕は戸惑った。誰かが、昨日の僕の言葉に返事をしてくれていた。
不可解だが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。感謝の言葉のやりとりだからだろうか。
この家には誰もいない。それなら、僕は誰と会話をしているのか。
「おとうさん、いつもありがとう」
僕はもう一度そう書いて、ふと思う。それから横に似た言葉を書いてみた。
「おふろさん、いつもありがとう」
確かに少し字面は似ている。特に、水滴が流れて文字が崩れやすいこの壁では。
僕はこれまで、お風呂向かって感謝していると思われていたのだろうか。それで、このお風呂が親切にも返事をしてくれていたのかもしれない。


確かに、いつも体を清潔にし、温めてくれるお風呂には感謝をすべきだ。僕は体を洗ってから、思い立って風呂掃除をすることにした。スポンジでバスタブを擦りながら壁に目をやる。
「おとうさん、いつもありがとう」
「おふろさん、いつもありがとう」
僕はなんとなく微笑ましい気持ちになって、この並んだ二つの言葉は流さずにいようと思った。このあと帰ってくる両親に見てもらおう。
いや、だけど、昔返事をくれていたのが誰だったのかは、知らないままの方がいいのかもしれない。
とにかく僕は、実家の風呂を綺麗にして、お風呂にも、両親にも感謝しようと思った。

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河邉徹

WEAVERのドラマーで小説家。お風呂は一日に何度も浸かる派です。 おふろ部では、お風呂の魅力が伝わるような物語を書いていけたらと思っています!

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